昭和41年01月27日 夜の御理解
今、御祈念前に、御道の新聞が来ておりましたから、それを見せて頂いておった。そしたら、月に一回ずつ位い、一回でしょう。八代と言う、この方はどこか北海道かどっかの教会の先生、まあそうゆうこつで、まあ偉い方らしいんですね。が、何時もあのう、社会随想を書いておる。もこれが、終わりらしいんですがね、その中に、何時だったのか、あのどうでも良いと言う、どうでも良いと言う主義と言う事に付いて書いておられた。どうでも良いと言う主義なんですね。
私しも非常にそのその時は共鳴してから読ましていただいたから、今日私しもどちらかとどちらからじゃない、私しも大体そうゆう生き方なんです。どうでも良いと例えばそんなら、この御本部行きの事でも行かんならんごつなら行こう。それを又あれする。あれがあればもうどうでも良いと。こういう訳なんですがね、それそのどうでも良いと言う。その生き方一片書いたらあっちこっちからその反響があってから。
そういう生き方をしたら、人間は詰らんではないかと納得出来ないと言う様な、その手紙が来てから、最後にそのもう一片その、私しの生き方について書くと言うてから、書いておられるんですね。 その中に、こう云う様な話しが載っているんです。ある家族の方が揃って、そのアメリカに行かれたんです。商事会社に勤めておられる方。ニューヨークのそこの商事会社の支店長をしておられるらしいんです。
である時にそのまあ、家族揃うて奥さんと子供さんと三人で、あのどこへか遊びに行かれる為に、その駅に行かれたんですね。そこに何かちょっと買い物を思いだされたもんですから、あのご主人は奥さんと子供さんを駅に置いて、買い物をして帰って来られたと言う訳けですね。したらその奥さんと子供さんが言われる事です。今、あたし達がここに立ってまあ、あなたを待っておったら、ある人がですね、あたしにその、お金をくれたとこう言う訳なんですね。
それでその御主人が、そこでその大笑いしておられる所なんですよね。お前達の身なりがあんまり、その貧弱な格好をしておるもんだから、もうそのアメリカの人がですね、まあ乞食ときっと思われたに違いないんだと、それでそのお前達に、その乞食と思うて、お前達にやってるんだと言うて、大笑いされたと。だから、どうでも良いと言うのは、そういう生き方だと、言う風に説明しておられるんですね。例えば、そんな風なもの貰うて、国辱になるじゃないかと、国の恥じゃないかと。
もうその人ば、付け込む事も、そのどうしたバカな奴じゃうかと言いまして、腹かき勝ち名所ですよね。そこん所もう本当に、どうでも良いと言う訳なんです。あたしはそう云う様な生き方と言うものが、確かにおおらかな生き方なんですね。そこん所に義理とか、人情とか言った様な礼儀とか、作法とか言わずにですね、もう本当に在るがままに、その辺をですね頂く。そういうその生き方が、どうでも良い様になる。
ありゃ本当にお前達は乞食に思われたんだぞ。と言うてその笑える、そのおおらかな心。そうゆう生き方を、自分はどうでも良いと言うて、どうでも良い主義だと言う事を、以前に書いたんだけど、この事が皆さん分かって頂けるでしょうかと、言うてその最後に書いて御座いますもん。私しは、それがよう分かるんですけれそね。けれども、私しこんな様な記事を、夕べあの為だったでしょうか、私し昼から炬燵に下がって控えておりましたら、うとうとしとる時に、御夢頂いているんですね。
それにあの始めはゲームの様だったけどゲームでもない、やっぱり本気で戦っておる様なんですね。それがその交代に撃つ事になっているんです。こちらが撃ったら止めて、今度は向うが撃つとそれで。その、まあ、鉄砲かなんか撃っているんですけれどもね。こちらの方の人は全然その無抵抗主義なんです。もうだんと言っておる訳けなんです。それに向うから撃って来る。すと、向こうがどうか言うて来るだろう、撃って来るだろうと思うてから、その待ってる訳けなんです。
と撃つと思うたら、又こちらから撃つとそして、その所がその、そうしてはですね、あのいわゆる、そのいわゆるどうでもいい主義なんですよね。撃たれても、例えば言われてもです、あの、それが神様の働きだとして、その受けておったんですね。ところがだんだんその何回も、それ度重さねて行きよったらですね、こんだ次ぎには、火炎放射機の様なものを、ブーット、その。
相手が撃ちだしたんですね。そしたら今までは、そのそれをまあ言うなら、有り難く受けて、神様の働きとして、受けておったと言う感じの人がです、こんどは、火炎放射機になったもんだけん、恐くなったんです。逃げだしたんですね。そしたら、こちらの方の人は、益々その追いつめて行く、と言うところを、あたくし御夢の中に、頂いておりましたんですけれどもね。
どうでも良い主義がね、その信念の裏付けのないもの、神様の御働き、神様の御言葉として、神様のあられ方として、頂ききれば、それは、いくら撃っても、あたらないでしょう。当っても、それが、あのこちらを倒す事は出来なかったんですけれども、恐がって逃げだしたら、もう追いつめられるより、外にない訳なんです。普通の鉄砲玉のときにゃ、その信じまあ、信じれておったけど、火炎放射機になったら少し、恐くなって来たと言う訳けなんですね。
まあいうならこれをまあ、その鉄砲やら兵器やら言わずに、まあ言葉でもよいですよね。一言言いや向こうから一言言い返す。というこちらが一言、言うたら又言い返えす。だから矢張り両方も疲れるから、何時の間にかこの、治まると言った様な事にもなろうけれども、片一方が言わんでおる、けどもじっとその心の中に金光様を唱えて、或は神様の言葉として頂くと。
それによって自分が磨かれるんだと言う様な頂き方をしておれば、相手がどんなに入って来てもです、撃って来ても、障らない訳けなんです。いわゆる相手を殺そうとしても、相手の心はひとつも死んでない訳なんです。そうでしょうがね神様の御言葉として相手は頂いてるんですから。所が少しえげつない事を、いわば矢継ぎ早に、火炎放射機の中にぱぁっとやられた所が少し、今度は恐く成って来たと。
たいてい辛抱しとったけど、もう辛抱がでけんと言う事になって来たところにです、矢張り追詰められねばならん、矢張りあの正直者ほどバカを見ると言った様な結果に終わってはならない。どうでも良いと言う主義は、唯そのおおらかな性格。 成程この程度の事はそれでいいかも知れん。例えば今のそのニューヨークであったと言う話し、その程度ならば笑って済ませる。
こう云う事も言わんで済む、お前達があんまり身なりがみすぼらしいから、乞食と思うたんだろうと言うて、笑って済ませれれるおおらかさと言うのは、有難いけれども、それがもっと、ほんならもっとひどい事であった場合です。それを受け切れなかった。矢張り信心する者が、バカを見らなければならんのであったり、又は正直者がバカを見らなければならなかったり。やっぱり言いくるめられてある者が、窮屈の所に、乗り込まないかなければならないと言う事になる。
だから例火炎放射機の様にあってもです。そこん所を受け抜かせて頂けるだけの、神様を信ずる力とか心と言うものが必要であると言う事を、私しその今日の御夢の事を、今の新聞を読みながら思い出したんですよ。ははぁこう言う様な事を読む為めだったんじゃろうかと思うて、思い出さして頂いたんですけれどもね。お互いの、例えば神様を信ずる力の中にです、例えば私くし共がどうでもう良いと言うのは、あのとに角人が助かりさえすれば、どうでもよいのである。ただどうでも良いと言うのじゃない。
神様が必ずおかげを、下さるんだと言う、信念があるから、どうでも良いのであるその事は。だから、ここんところの信が薄すかったら、どうでも良いと言う主義。矢張りそれは、まあ一つの生き方としてですね、そのまあ、大らかな生き方が出来る事は、出来るけれど、だろうけれども、それではしかし、繁盛がない。それでは、本当のおかげにはならない。神様ももちろん、そのやむやつぐですか、その先生の場合なんかは、そこの説明はしてないですけれども。
おそらく私しはまあ、金光様の先生の事ですから、人が助かる事さえ出来ればです、どうでも良いと言う主義でおありになるだろうとは、想像するけれどもそれを感じて、今日の私しの夢と、それからその事を思うてみてですね、もう本当にどうでもよい主義に徹し抜かれて。おかげでなからなければ駄目と言う事、このまんまじゃどうでもよいのだけれども、その辺までは、おおらかに思い方を変えてその、それを一つもさわらんで受けていけれるけれども。
なら、火炎放射機の様な物で、向われたら、もう逃げ出さなければおられんと言う事になれば、もうその人は、いよいよ不幸になる。いわゆるその正直者は、バカを見ると言う様な事にまで、なりかねない訳けなんですからね。例えよしそれが火炎放射機の様な物で、その、撃って来てもですね。それを、神様の働きになると信じて受けれたら、もうこちらはいくら、火炎放射機の様なものであっても、焼けもしなければ、殺されもする事もない。勿論自分の心がですそれを、受けていけれると言う事ですね。
どうでも良い主義と、これ私もよ、使う言葉ですけでれども、そのあたしゃどげんなったっちゃ、よかっちゃからと言う事なんですよ。けども私しの場合は、そこに、この先生の場合も、そうだろうと思うんですけれどもです。例え火炎放射機でいられる様な事があっても、恐らく私しなら、逃げないだろうとこう思う訳けです。そこんところに徹しなければ、私しはどうでも良いと言いながら、あれだけのおかげを頂いておる。どうでもいいと言いながら、あんな助かり方をしておると言う助かりには、おかげにはなって来ないと思うんですね。
どうぞ。